【ゼカリヤ書解説】勝利の幻#7 〜技なるおかた〜

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キリストは私たちのすべて

ゼカリヤ書の中心に、枝なるおかたが至高者として示されています。キリストはご自身の民を回復し、彼らの擁護者、義、さばき主、大祭司、そして王として働かれます。

ゼカリヤ書におけるキリスト

今回の課は、枝なるおかた、すなわちメシヤについて学びます。この枝なるおかたは人の子、神の子、大祭司、王、しもべ、神殿の建築者、その隅石となられるおかたです。

ゼカリヤ書3章では、大祭司ヨシュアが中心人物でした。しかし、枝なるメシヤも神の祭司また王としてヨシュアを擁護し、ゼルバベルに神殿を再建する力を与えておられました。メシヤはおひとりで大祭司と王の二つの聖職を担っておられました。ゼカリヤ書6:12、 13の大祭司また王は、3章および4章に描かれたヨシュアとゼルバベルの働きを兼任しておられます。彼はあがないを提供し、神の国を建設し、神の民を支配されます。キリストはその初臨において、私たちの救い主また大祭司となられました(へブル4:14)。彼は「王の王、主の主」として再臨されます(黙示録19:16)。

わたしのしもべなる枝(ゼカリヤ書3章8節〜10節)

質問1 「枝」という言葉にはどんなメシヤ的な意味がありますか。それはだれをさしますか。ゼカリヤ書3:8

しもべなる枝という言葉は、清めと回復についてのヨシュアの幻に関連して用いられています。この幻において、地上の大祭司ヨシュアは天の大祭司の型となっています。

へブル語では、「枝」という言葉そのものがメシヤについての預言となっています(イザヤ書11:1、4:2、エレミヤ書33:15参照)。ユダヤ人はこの枝が来るべきメシヤをさすと信じていました。メシヤは預言者によって与えられた神としての、また人間としてのあらゆる特性を備えられるのでした。

イスラエルの希望

「来たるべき救い主なる枝に、イスラエルの希望がかかっていた。ヨシュアとその民とが罪の赦しを受けたのは、来たるべき救い主に対する信仰によってであった」(『国と指導者』下巻190、191ページ)。

質問2 「しもべ」という言葉とメシヤに対するイスラエルの希望とのあいだには、どんな関係がありますか。ゼカリヤ書3:8をイザヤ書53:11と比較、ピリピ2:6~8

「わたしのしもべ」はキリストを描写

このしもべはあがない主、また苦しみのメシヤです。彼は神と人への奉仕のために完全に自分をささげられます。「キリストは彼の民の贖い主、救い主としてあらわされる」(『国と指導者』下巻197ページ)。

福音書はイエスの生涯にあらわされたメシヤの特性について描写しています。

1.マタイによる福音書では、メシヤの家系が王の血統をたどってダビデにまでさかのぼっています。イエスは旧約の預言にしたがって来られる天の王でした。

2.マルコによる福音書では、メシヤが良きわざをしながら巡回される行動の人として描かれています。イエスは人類を助け、いやし、回復される神のしもべでした。この福音書においては、メシヤの言葉や教えよりもその奉仕に強調がおかれています。

3.ルカによる福音書では、メシヤがその受肉によって真に人類を代表される人の子として描写されています。彼は第2のアダムとして、第1のアダムの失敗したところで成功されました。「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカ19:10) 。

4.ヨハネによる福音書では、メシヤは聖なる、永遠の神の御子として描かれています。彼の家系は、マタイの福音書におけるように、ダビデにまでさかのぼることもありません。なぜなら、彼はアブラハム以前から存在し、永遠から神であられたからです(ヨハネ1:1)。

質問3 ゼカリヤ書の石は何を意味しますか。ゼカリヤ書3:9

石の象徴もまたメシヤを示しています。それは枝の象徴を補足するものです。この石は独特な、同質のものです。それは全知の七つの目を持っています(黙示録5:6比較)。メシヤは主権者です。彼はあらゆる知識、権威を持ち、すべての出来事をさぐり、見ておられます。何ものも彼から隠れることはできません。

質問4 枝あるいは石なるおかたの働きのゆえに、主が「この地の罪を、1日の内に取り除く」とはどういう意味ですか(ゼカリヤ書3:9)。つぎの聖句が何を教えているか考えてください。

・ヨハネ第Ⅰ・2:2、4:10
・へブル9:25~28
・イザヤ書4:2~6
・黙示録21:27

キリストは罪悪感を取り除かれる

罪悪感は心に重くのしかかり、その重荷は魂をおしつぶします。それを取り除くことができるのは主イエスだけです。私たちはイエスのいやしの働きにどれほど感謝しなければならないことでしょう。

質問5 「ぶどうの木の下、いちじくの木の下」という表現は何を意味しますか。ゼカリヤ書3:10

ぶどうといちじくの木はイスラエル国家の象徴

これらの木を植え、その実を食べ、その下で休むことは、安全、平和、喜び、繁栄のしるしでした。自分自身の木を持ち、だれも盗む者がいないということは、繁栄と満足の条件でした。

この預言はキリストの再臨において完全に成就します。罪悪感と悪はこの地から完全に除去されます。平和、喜び、繁栄が聖徒たちの家に満ちます(イザヤ書65:21~25)。

この人を見よ(ゼカリヤ書6章9節~15節)

ゼカリヤ書の八つの幻はメシヤの再臨において最高潮に達します。ゼカリヤ書6:9~15は歴史的、メシヤ的、預言的な含みを持っています。神殿再建の働きおよび神の民の霊的回復は、メシヤの来臨と永遠の王国の建設まで続くものでした。この預言の成就はイスラエルの従順を条件としていました(ゼカリヤ書6:15)。キリストの初臨によって、預言は部分的に成就しました。それはキリストの天における働きによってさらに成就します。しかし、最終的に成就するのは再臨においてです。

質問6 バビロンから帰って来た人たちは何を持ってきましたか。ゼカリヤは何を造ろうとしていましたか。ゼカリヤ書6:10、11

「ある人たちは、この3人がバビロン在住のユダヤ人の代表であって、神殿へのささげ物を携えて来たのであると言う。七十人訳聖書〔ギリシア語の旧約聖書〕では、これら3人の名前のところが、『主要な人々』、『有用な人々』、『それを悟った人々』という象徴的な意味の語になっている」(『SDA聖書注解』第4巻1099ページ)。

質問7 王冠をかぶったヨシュアと枝なるおかたとのあいだには、どんな関係がありますか。ゼカリヤ書6:11、12

「イスラエルにおいては、祭司の職務と王の職務は区別されていた。祭司は絶対に王冠をかぶらなかったし、王座につかなかった。王は絶対に祭司の職務を遂行しなかった。しかし、ここに王冠がゼルバベルでなくヨシュアの頭に置かれている。これは王、また祭司となる方を指し示している。『その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて』(13節)と書かれている」(ボイス『小預書』180ページ)。

質問8 「彼〔枝〕は自分の場所で成長して」(ゼカリヤ書6:12)とは、どういう意味ですか。イザヤ書11:1、53:2比較

メシヤとユダヤ国家とのあいだには何と大きな相違があることでしょう。同じ種、背景、環境から生きた枝が生じ、それが死、悪、絶望に代わって生命、義、希望を与えるのです。死んだ株、かわいた土からは枝も木も実も生じません。しかし、生ける枝が来られるとき、「地の産物はイスラエルの生き残った者の誇、また光栄」となります(イザヤ書4:2)。

質問9 ゼカリヤ書6:12と黙示録5:5、9、10、22:16とのあいだには、どんな関係がありますか。

私たちの無力・不毛をいやす唯一の方法は、生ける枝なるキリストと生きた関係を持つことです。私たちは彼から栄養と生命を受ける必要があります。キリストから離れることは死を意味します。乾燥した、干上がった土の中の枯れた切り株のようなものです。

質問10 枝なるおかたは何をされますか。その行為がどんな動詞によって表現されていますか。ゼカリヤ書6:12、13

「ゼルバベルによって完成される神殿(エズラ記6:14、15)以上のものが、ここに予告されている。預言者は霊的な家を心に描いている」(『SDA聖書注解』第4巻1099ページ)。

真の建設者であられるメシヤは、ゼルバベルとその働きを導く力でした。ゼルバベルの働きは、復活後、神の王国を建設されるキリストの働きの型でした。

イエスのからだの神殿

イエスはご自分のからだの神殿について語られました(マタイ26:61)。彼はそれをこわし、3日のうちに再建されるのでした。ご自分の民のために自発的にささげられた彼のからだと生命の神殿はよみがえるのでした。イエスはご自分の民のために生き、「世の終りまで」(マタイ28:20)、いつも彼らと共におられるのでした。

霊的神殿

神殿はキリストと彼の民とのあいだの霊的関係を表しています。彼は私たちを愛するゆえに、私たちのうちに住もうとされます。「彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである」(出エジプト記25:8)。

パウロとペテロは主の神殿のことを、教会、神の霊の家、キリストのからだと言っています(エペソ2:19、20、コリント第Ⅰ・3:16、17、ペテロ第Ⅰ・2:5、6参照)。神の国が人々の心に受け入れられ、そこに建設されるとき、主の宮は全世界を包含するものとなります。

質問11 ゼカリヤはどんな興味ぶかい方法によって、メシヤの王としての、また祭司としての働きを描写していますか。ゼカリヤ書6:13

人類のために働かれる天父と御子

「天父と御子との関係、また両者の人格性がこの聖句にも明示されている〔ゼカリヤ書6:12、13引用〕」(『教会へのあかし』第8巻269ページ)。

「『このふたりの間に平和の一致がある。』み子の愛に劣ることのない天父の愛が、失われた人類に対する救いの基礎である。イエスは、去る前に弟子たちに次のように言われました。『わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである』(ヨハネ16:26、27)。『神はキリストにおいて世をご自分に和解させ』られた(コリント第Ⅱ・5:19)。そして、天の聖所の奉仕において、『このふたりの間に平和の一致がある』」(『各時代の大争闘』下巻129ページ)。

質問12 「遠い所の者ども」とは、だれのことですか(ゼカリヤ書6:15)。エペソ2:13、17、ペテロ第Ⅰ・2:3~5比較

「聖書の中で、神殿建設の姿は、しばしば教会の建設の例として用いられている。ゼカリヤはキリストを、主の宮を建てる『枝』にたとえている。彼はまた、異邦人がこの仕事を助けることについて述べている、『遠い所の者どもが来て、主の宮を建てることを助ける』。またイザヤは、『異邦人はあなたの城壁を築』くと、述べている(ゼカリヤ書6:12、15、イザヤ書60:10)」(『患難から栄光へ』下巻303ページ)。

質問13 私たちがメシヤの祝福にあずかる条件は何ですか。ゼカリヤ書6:15(ヨハネ15:10、黙示録12:17比較)

「ユダヤ人は神の霊の家の中核を形成することができたのであった。しかしながら、ここにはっきりと示されているように、彼らに与えられた約束は条件つきであった。それでも、人間の失敗かかわらず、神の目的は着実に進展し、今日の神の霊的な家を構成する諸国民の代表者によって達成される」(『SDA聖書注解』第4巻1099、1100ページ)。

まとめ

失われた者たちを救うために、「枝」なるキリストは人となられました。彼は私たちの罪悪感を取り除き、平安を与えてくださいます。彼はご自分の臨在と力を通して私たちのうちに神の国を建設し、祭司と王という二つの働きによって人類を神ご自身に和解させ、回復されます。

*本記事は、フィリップ・G・サマーン(英:Philip G. Samaan)著、安息日学校ガイド1989年4期『勝利の幻 ゼカリヤ書』 からの抜粋です。

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